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updated 2012-02-06
…説明のために少し補助線を引かせてください。90年代以降私はずうっと「身体の演劇」と言い続けているのですが、つまり「身体」がどのような状況になっているのかを演劇を通して考えてきたわけです。で、まず言えることはそれ(=身体)はきわめて歴史的なものであると。たとえば私が演劇を始めた70年代中頃まではこの「身体」というのは「肉体」と言われていたんです。それから、「身体」と呼ばれて。そして私は今「人体」と言い始めているのです。
ところで、60年代には「肉体」というのは〈反乱〉と一緒に語られていました。「肉体」が近代のヒエラルキーを転倒すると。つまり知性と感性というものがあったときに、その階層をひっくり返す、転倒していくのだと。革命のイメージと肉体の反乱はまさに同義語だったわけです。それが敗北したときに「身体」が登場したのだと私は思っています。
「身体」——つまりこれは〈生成的なもの〉と〈構築的なもの〉が、いわばこれまで対立していたものが一体となっていくというか、〈知性〉と〈感性〉が一体化して〈知覚〉といわれるようになりましてね。例えればアポロン的なものとディオニュソス的なものがお互いに対立したり一体になったりしながら生成と構築を繰り返す、というイメージのなかで身体の可能性が、当時進展しつつあったメディア・テクノロジーとの共存とともに語られていたんですね。

それで、いま、私が問題化している「人体」というのは、アポロン/ディオニュソスという概念で、この「肉体」なり「身体」を捉えるのではなくて、アガンベンなどが持ち出してきた「ゾーエー」のことであって、いまや「身体」は「ビオス/ゾーエー」という対で語られなければならないのではないかと、思ったんですね。で、この「人体=ゾーエー」というのはそもそも徹底して無抵抗で、いわば人間の身振りを忘却したような、ほとんど応接の不可能性的なようなものを身にまとった存在——私は「身体の要塞化」と呼んでいるのですが、そういった存在とどのように演劇が関われるのかということを、いま考えているわけです。…
様々な古今東西の重要な演出家達の文章や発言についてこのところ参照をしているんですが、とりわけ私にとって近しいというか重要なものはやはり土方巽の語っていることですね。
よくね、土方のことを土着的身振りの回帰とか、「東北」へのノスタルジアとかそんな言葉でもって伝統の中に博物館化しようとする向きもありますが、私はそう思わなくて、むしろ彼の語ったことっていうのは今非常にアクチュアルなんじゃないかと——たとえば「剥製」とか「衰弱体」といっている。「剥製」というのはどういうことかというと、私の考えでは、要するに「見られる」、こう他人から見られたときにね、通常は見返すのですね。よく演技の指導なんかでも「はっきり相手の目を見てフォーカスしてしゃべれ」とか言われるわけですよ。だけど「剥製」は一切そういうものを無化してしまう。
どういうことかというと、見返すのではなく映させるのだということ、この眼球の表面に映させる。いわば自分の体をスクリーンのように扱うというか、そういう概念ですね。これはもう絶対的な受動性に晒された身体、ある意味でゾーエーと言ってもいいような状態を名指しているようにも聞こえてきます。…
清水信臣
(鴻 英良氏との対談より 2008年1/27日収録)
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日時 : 2011年10月24日(月) 19:00〜22:00 亡骸と形骸/「残像」をめぐって
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会場:FreeSpace CANVAS | ||
料金:1,500円/ 1回 | ||
お申し込み・問い合わせ/Booking : 劇団解体社 Phone/Fax: 03-5802-5387
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